【文春】「鬼滅の刃 」禰豆子の竹筒は「女はしゃべるな」の意味? 鬼滅の“ジェンダー観” ★2 [muffin★]
1: muffin ★ 2020/12/28(月) 22:21:53.02 ID:CAP_USER9
https://bunshun.jp/articles/-/42370
『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』は不滅の記録と思われた『千と千尋の神隠し』を越え、日本映画の興行収入歴代1位になった。この空前の大ヒットをめぐって、さまざまな考察や論考の記事は増える一方である。朝日、毎日と言った大手紙の考察論考記事連発を皮切りに、保守系新聞『世界日報』はWEB会員限定記事で『「家族」重視の改憲派にとって「鬼滅」人気は追い風、保守紙は目を覚ませ』という記事を掲載、コンビニで見かけた『実話ナックルズGOLDミステリー』(オカルト特集増刊らしい)の表紙には「『鬼滅の刃』は人類滅亡を暗示していた!」という見出しが踊っていた。右から左まで乗っかりすぎだろう。
中略
毎日新聞の記事『これじゃあ男もしんどくない?「鬼滅の刃」の男女観』で元サンデー毎日編集長の山田道子氏が挙げた「禰豆子は基本『助けられるヒロイン』」という指摘も疑問である。
「鬼にならないように竹の口枷をくわえているのは『女はしゃべるな』みたいに私には思えるし、鬼にならないと戦えないのもなぜ?と思ってしまう」という山田道子氏の記事中の言及に至っては「あの、そもそもちゃんと読んでないですよね?」としか言いようがなく、鬼にならないように竹をくわえているのではなく、もう鬼なのである。
鬼にならずに戦っている多くの鬼殺隊の女性メンバーを完全無視で論じるのもどうかと思うが、禰豆子というキャラクターは「無惨様に傷つけられて被害者となったことにより、鬼殺隊のような超絶訓練なしで鬼と戦う鬼パワーを手に入れた」という、被害者デビルマンみたいな優れたキャラクター性がポイントの「戦うヒロイン」である。
竹筒をくわえているのは「女はしゃべるな」という意味ではなく、被害者となり自分の言葉を失った禰豆子が人間性を回復し言葉を取り戻していくプロセスがこの作品のテーマの根幹にあるからであって、これは『千と千尋』の主人公・千尋が湯婆婆に「千尋」という名前を奪われそして取り戻す構造によく似ている。
中略
しかしでは、『鬼滅の刃』は完全にリベラルでジェンダーフリーでポリティカルコレクトでアップトゥーデイトな文科省推薦作品なのか?と言われればそれもまたちがうだろう、と思う。
朝日新聞の記事『「鬼滅の刃」で考えるナショナリズム 煉獄杏寿郎の教え』では、58歳の記者が「鬼滅の刃を見て宇宙戦艦ヤマトを思い出した」ことをきっかけに社会学者・大澤真幸氏のインタビューを通して鬼滅の刃に満ちる「自己犠牲」の精神の是非を慎重に論じる記事になっていた。
確かに『鬼滅の刃』にはある種の復古主義的な側面があるのだと思う。だが、インタビューなどでの発言から左派、リベラルと目される宮崎駿の作品にも、そうした復古主義の色彩はある。
宮崎駿のインタビュー集などで彼の発言に触れてきた観客は誰でも知っていると思うが、彼は現代の若者の快楽的、刹那的なサブカルチャーへの嫌悪感を隠さない。ジブリ映画の中で描かれる凛とした少年少女のキャラクターには、1941年生まれの宮崎駿が幼少期を過ごした戦中から戦争直後にかけて、国家に理想とされた「少国民」の面影がどこかに残っているのではないかと思う。
かつて押井守が宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のクライマックスで王蟲の前に身を投じて犠牲になり、そして復活するナウシカの描写を「特攻隊精神が充満している」と評したことは有名だが、一人の作家、一つの作品の中に矛盾した複雑な深層意識が渦巻くことは、優れた作家ほど珍しくない。だからこそ保守派も含めたマジョリティにリーチできるとも言える。そうしたものを政治的に徹底的に排除していけば、それが右にせよ左にせよ後にはプロパガンダ映画のようなものしか残らないだろう。
最後に、ここからは『鬼滅の刃』に対する個人的な感想になるのだが、これほど「死」にこだわった作品、死の臭いがする作品はジャンプの大ヒット作の中では異例なのではないかと思う。
『鬼滅』の死の描き方は、『ドラゴンボール』や『ワンピース』とも違うし、『デスノート』の乾いた死とも違う。まるで最初から死そのものが主人公であるように、そして奇妙なことだが、一刻も早くこの「死についての物語」を描き終えなくてはならない何らかの理由があるかのように、この物語は明らかに描き急がれている。
全文はソースをご覧ください
★1が立った日時:2020/12/28(月) 17:42:03.88
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1609144923/
『劇場版 鬼滅の刃 無限列車編』は不滅の記録と思われた『千と千尋の神隠し』を越え、日本映画の興行収入歴代1位になった。この空前の大ヒットをめぐって、さまざまな考察や論考の記事は増える一方である。朝日、毎日と言った大手紙の考察論考記事連発を皮切りに、保守系新聞『世界日報』はWEB会員限定記事で『「家族」重視の改憲派にとって「鬼滅」人気は追い風、保守紙は目を覚ませ』という記事を掲載、コンビニで見かけた『実話ナックルズGOLDミステリー』(オカルト特集増刊らしい)の表紙には「『鬼滅の刃』は人類滅亡を暗示していた!」という見出しが踊っていた。右から左まで乗っかりすぎだろう。
中略
毎日新聞の記事『これじゃあ男もしんどくない?「鬼滅の刃」の男女観』で元サンデー毎日編集長の山田道子氏が挙げた「禰豆子は基本『助けられるヒロイン』」という指摘も疑問である。
「鬼にならないように竹の口枷をくわえているのは『女はしゃべるな』みたいに私には思えるし、鬼にならないと戦えないのもなぜ?と思ってしまう」という山田道子氏の記事中の言及に至っては「あの、そもそもちゃんと読んでないですよね?」としか言いようがなく、鬼にならないように竹をくわえているのではなく、もう鬼なのである。
鬼にならずに戦っている多くの鬼殺隊の女性メンバーを完全無視で論じるのもどうかと思うが、禰豆子というキャラクターは「無惨様に傷つけられて被害者となったことにより、鬼殺隊のような超絶訓練なしで鬼と戦う鬼パワーを手に入れた」という、被害者デビルマンみたいな優れたキャラクター性がポイントの「戦うヒロイン」である。
竹筒をくわえているのは「女はしゃべるな」という意味ではなく、被害者となり自分の言葉を失った禰豆子が人間性を回復し言葉を取り戻していくプロセスがこの作品のテーマの根幹にあるからであって、これは『千と千尋』の主人公・千尋が湯婆婆に「千尋」という名前を奪われそして取り戻す構造によく似ている。
中略
しかしでは、『鬼滅の刃』は完全にリベラルでジェンダーフリーでポリティカルコレクトでアップトゥーデイトな文科省推薦作品なのか?と言われればそれもまたちがうだろう、と思う。
朝日新聞の記事『「鬼滅の刃」で考えるナショナリズム 煉獄杏寿郎の教え』では、58歳の記者が「鬼滅の刃を見て宇宙戦艦ヤマトを思い出した」ことをきっかけに社会学者・大澤真幸氏のインタビューを通して鬼滅の刃に満ちる「自己犠牲」の精神の是非を慎重に論じる記事になっていた。
確かに『鬼滅の刃』にはある種の復古主義的な側面があるのだと思う。だが、インタビューなどでの発言から左派、リベラルと目される宮崎駿の作品にも、そうした復古主義の色彩はある。
宮崎駿のインタビュー集などで彼の発言に触れてきた観客は誰でも知っていると思うが、彼は現代の若者の快楽的、刹那的なサブカルチャーへの嫌悪感を隠さない。ジブリ映画の中で描かれる凛とした少年少女のキャラクターには、1941年生まれの宮崎駿が幼少期を過ごした戦中から戦争直後にかけて、国家に理想とされた「少国民」の面影がどこかに残っているのではないかと思う。
かつて押井守が宮崎駿の『風の谷のナウシカ』のクライマックスで王蟲の前に身を投じて犠牲になり、そして復活するナウシカの描写を「特攻隊精神が充満している」と評したことは有名だが、一人の作家、一つの作品の中に矛盾した複雑な深層意識が渦巻くことは、優れた作家ほど珍しくない。だからこそ保守派も含めたマジョリティにリーチできるとも言える。そうしたものを政治的に徹底的に排除していけば、それが右にせよ左にせよ後にはプロパガンダ映画のようなものしか残らないだろう。
最後に、ここからは『鬼滅の刃』に対する個人的な感想になるのだが、これほど「死」にこだわった作品、死の臭いがする作品はジャンプの大ヒット作の中では異例なのではないかと思う。
『鬼滅』の死の描き方は、『ドラゴンボール』や『ワンピース』とも違うし、『デスノート』の乾いた死とも違う。まるで最初から死そのものが主人公であるように、そして奇妙なことだが、一刻も早くこの「死についての物語」を描き終えなくてはならない何らかの理由があるかのように、この物語は明らかに描き急がれている。
全文はソースをご覧ください
★1が立った日時:2020/12/28(月) 17:42:03.88
https://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1609144923/
続きを読む